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其角「横雲」とはウンコのこと


其角でシメます。


 横雲や はなればなれの 蕎麦畑


横雲とは何か。岩波の解説ですが、

 「空には一筋の横雲がたなびき」だそうです。


ふーん。入道雲以外は、雲ってえのは、ぜーんぶ「横」じゃね?


仮説はありました。ウンコのことではないかとね。

吉川英治さんのこの句がヒントです。

  西行の 野糞してゆく 花野哉

西行の、

 月影の しろきを見れば かささぎの
     わたせる橋に 霜や置きける

霜や置きける=下や置きける

下=ウンコです。

かささぎのわたせる橋=「み」棄で右京とか、陵など、贅沢や権威の象徴だと思います。じっくり解読はしていません。

月影のしろき=白米を食べていることなどかと


時はながれ、定家です。

 春の夜の 夢の浮橋 とだえして
      峰に別るる 横雲の空


夢の浮橋=虹=二字=武士。お約束です。

横雲=くそ=愚僧 空=身の上

 値千金の 武士を捨て 法に別るる
         愚僧の身の上
      
こんな感じかと。当然、西行のことね。

そういえば、深沢の「庶民烈伝」に、西行のことを「クソ坊主」と書いていた気が……。


それで、なぜ「横雲」がウンコなのか。最初は形状だと思いました。横に、黄色い雲って感じ。

が、それではイマイチ説得力に欠ける。

この其角の句と一致するのが「1973年のピンボール」では文庫P146〜です。

蕎麦の花は鶏糞の臭い、ウンコ臭いのです。

主人公はスペイン語の講師と別れて一人で行きます。

この句であることは間違いない。が、横雲=ウンコは出てこない。

そんなはずはないのです。
村上春樹さんを信じて、10回くらい読みました。


 煙は狼煙のような形に低く流れた。


ああーーっ、わかったぞ。



 雲=ん


横雲とはコレです。


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一年の〆にふさわしい文字でしょ。


そうそう、句の解釈は、野外でウンコするときは「はなればなれ」ってことかと。


もしかして……「うんこ」は雅語だった?

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by ukiyo-wasure | 2017-12-31 12:36 | 古川柳・俳句 | Comments(0)

北斎と写楽


写楽=北斎だと思っています。

理由は、写楽は「判じ絵」で、北斎の絵と同じ発想で描かれているからです。

シャレのセンスがまったく同じです。

絵のタッチはどうかというと、彫り師が間に入っていますから、なかなか判断が難しいと思います。

写楽の絵の中で、役者絵ではないものがありました。比較してみてください。


 写楽
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 北斎

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手の感じ、似てませんか。

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by ukiyo-wasure | 2017-12-31 00:11 | 美術 | Comments(0)

「1973年のピンボール」読了・追記


最終章がこの句と一致と書きました。


 かはかうや 竹田へ帰る 雪のくれ


「かはかう」は肥汲みのことです。

農家の人が肥料として、トイレの糞尿を買いに来る。


「1973年のピンボール」最終章から引用します。


テネシー・ウィリアムスがこう書いている。過去と現在についてはこのとおり。未来については「おそらく」である、と。


「過去」も、まあ「かはかう」のシャレ?ですが、「おそらく」が曲者です。

何でわざわざ、こんなことを書くのだ。怪しいゾなのです。


ほとんどの人は「おそらく」を、「たぶん」「きっと」意味に取るでしょう。

しかーし、謙虚に辞書を引きますと「はばかりながら」の意味も出てくる。

毎日辞書を引くような生活をしている私でさえ、知りませんでした。


「はばかり」はトイレのことです。



最後のしりとりのつづき」も何かを暗示しているはずと読める。

すぐ後にこだまのように」と傍点付きで出てきます。

しりとりといえば「こぶた・たぬき・きつね・ねこ♪」で、「こだま」が続きます。


「きつね」を導くための描写と思われます。



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by ukiyo-wasure | 2017-12-30 11:12 | 古川柳・俳句 | Comments(0)

「1973年のピンボール」読了


其角の句の答え合わせとして読みました。

最後はこの句と思われます。

 かはかうや 竹田へ帰る 雪のくれ

解釈はこちら。

http://tamegoro.exblog.jp/27159922/



解読しながら読みましたが、キリシタンの登場にはビックリ。

其角の句は難解すぎて、まだまだ解らないのがいっぱいです。

村上春樹さんが、1980年に其角の句すべてを解読していたとしたら、大変な功績だと思います。

他の作品もぜひ読みたい。


源氏、芭蕉、其角、北斎、写楽、谷崎、深沢と来て、今、太宰もヤバいかなあ。

「富嶽百景」は、メアファー小説です。


深沢も谷崎も、村上春樹さんも、私には「読みたくない文体」でした。

足踏みしているような感じ。ムダが多いのね。

今は、その理由がハッキリしていますから、読めます。

同じような理由で苦手だったのが太宰です。

だから全然読んだことがありません。

そこが、シッポです。あの文体はワザとでしょう。

「パンドラの匣」ってありますよね。タイトルだけで、怪しい。

なぜ「パンドラの壷」じゃないの。

読んでいませんが、例えばね、

壷=こ=子。「子を捨てて」というように読める。

この手の小説は、タイトルに答えがあるから。

「富嶽百景」以後の作品は、要注意だと思います。


あとは中原中也ね。

「サーカス」は絶対、メタメタのメタファーでしょ。


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by ukiyo-wasure | 2017-12-30 02:45 | 詩・文芸 | Comments(0)

密教はキリスト教か


仮説でございますが、其角、あるいは芭蕉一門がキリシタンだとすると、行尊や三井寺などが、どうも怪しい。

一般の仏教の僧については、百千鳥などといってバカにしている。

確かに、僧の多くは、こっそり奥さんを持ったり、魚を食べたり、遊郭に行ったり、寺銭で儲けたりですから、一般人からみても「俗だなあ」だったと思います。

そんな中、行尊については「饅頭でたずねよ」ですからね。
別格なのでしょうか。

キリスト教といっても、平安時代より前に入ってきた景教で、これが密教に変装したとしたら、納得です。

想像が飛躍しますが、紫式部も景教だったのでは。

「源氏物語」を読んでビックリしたのは、権威をバカにし「民の利」を優先すべきという発想です。裏読みしないと解りませんが。

ざっと、まとめると、景教は密教や山伏信仰に姿を変えたのでは。

式部や定家のことを考えると「藤原氏」が関係している気がします。

「おくり火や定家のけぶり十文字」ですし。


また、義経一行が平泉に逃亡したルートがよく解っていないらしい。

景教のネットワークだったら納得です。

「奥の細道」の、東照宮での「あらたふと」の句。家康を讃えているようで、じつは「左甚五郎」を詠んでいる。

この人も正体不明です。「見ざる、聞かざる、言わざる」は、まさに密教。

其角の句は、後に入ってきて、殉教を奨励したようなキリスト教を、冷めた目で見ているようにも感じられます。


日本史研究家の皆様、ぜひ俳句や和歌も読み解いてみてください。



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by ukiyo-wasure | 2017-12-29 14:32 | 歴史 | Comments(0)

其角「頬かぶり」=幇間ぶり


其角の、

 名月や 居酒のまんと 頬かぶり


これ、やっと解けました。頬かぶり=幇間ぶり。


パトロンを交えて歌仙を巻くとき、どうゆう感じなのかと思います。

芭蕉と其角と、パトロンなど素人に近い人と連句をするときに、プロで挟んで「相手を立てる」感じで上手く詠むのかなあと思ったり。

そのあたりのテクニックがきっとあると思う。

だから、こういう句が出て来るのでしょう。

「名月」もよく出ますが、裏は解りません。


「1973年のピンボール」文庫ではP163〜だと思います。

断言はできませんが、鼠がどうも「男芸者」という雰囲気になっています。爪の手入れを気にしたり。


 こんなにゆっくりとビールを飲んだのは初めてだった。


落語「つるつる」の世界ですね。

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by ukiyo-wasure | 2017-12-29 01:03 | 古川柳・俳句 | Comments(0)

其角「明星や」はジュゼッペ・キアラか


其角の、

 明星や 桜定めぬ 山かづら


桜定めぬ 山かづら=往生めぬ 懺悔づら

と、解釈しておりました。

明星が、誰のことか解らない。

往生といえば、「往生要集」の源信か。桜がらみで西行か。

どちらもイマイチ、ピタッとこない。


「1973年のピンボール」文庫P161〜と一致すると思われます。

「沈黙」というワードが出てきます。遠藤周作の「沈黙」はちょうどこの頃の、キリシタンの話です。

仏教の僧ではなく、キリスト教の宣教師のことか。

「沈黙」のモデル、宣教師のジュゼッペ・キアラは転びました。


明星=赤星。

白魚が、白の「逆名」で赤。紅毛人のことでした。

赤星=赤法師=キリスト教宣教師



一般の信者が転ぶのは仕方がないけども、宣教師が転ぶのは「なさけない」という句ではないでしょうか。


  宣教師 往生めぬ 懺悔づら

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by ukiyo-wasure | 2017-12-28 22:44 | 古川柳・俳句 | Comments(0)

キリシタンでイメージ変わった其角


ここに来て、まさかの展開です。


其角のこの句、

 この木戸や 錠のさされて 冬の月


「キリシタン」という条件を加えて考えると、「1973年のピンボール」文庫P149〜とピッタシ。

ピンボール台が78台並ぶ、不気味な建物のシーンです。


此の木戸や=死の木戸や

キリシタン屋敷のイメージです。収容された牢です。病死者78人だそうです。

「冬の月」を何と読むか。

月=クニと読めば、「神の国」などになるのかなあとも思う。

冬=とお=十で、神の無い国か。

解ったら書きます。


それはさておき、其角は酒のせいでしょうが、若死にしています。

飲まずにいられない気持ちが、解ります。

悪い酒です。美味しいから飲むのではなく、酔うために飲んだのでしょう。

元禄は平和で、文化の花が咲き誇ったイメージだったのに……。

なーんか、気分が落ちました。


 ドーン!

 

 

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by ukiyo-wasure | 2017-12-28 16:52 | 古川柳・俳句 | Comments(0)

「1973年のピンボール」ジェイ=雀にもなる


前の記事で、ジェイ=キリストと書きましたが、全体を通してではありません。テーマに沿って役割が変化します。

「ふかえり」は蜻蛉にまでなりましたから。

この手の小説、「源氏物語」とかね、読みなれないと戸惑うことでございましょう。


「1973年のピンボール」文庫P133〜はこの句と一致です。

 雀子や あかり障子の 笹の影

引用します。

 固く結んだ拳を何度か空中に振り出してみる。


 拳=げんこ=源吾


句に戻ります。

頭書に「とびあがりしやうじといふらん」

解説では違うことが書いてありますが、勝手に解釈させていただきますと、

 とびあがり、子葉死と言うらん


大高源吾の死です。


ジェイ=J=ジャック=じゃく=雀


ここからは、かなり妄想入ります。半信半疑です。

 雀子や=チュン(鳴き声)子=殉死や

 あかり障子の=解り証拠の

 笹の影=酒の詠


大高源吾もキリシタンという仮定です。

酒の詠=辞世。これです。

 梅てのむ 茶屋も有へし 死出の山


梅=道真=上宮天満宮=高槻=高杯=聖杯


高槻はキリシタン大名、高山右近ゆかりの地なのですね。
















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by ukiyo-wasure | 2017-12-27 17:05 | 古川柳・俳句 | Comments(0)

「1973年のピンボール」ジェイ=キリスト


前回の記事

 行年や 壁に耻(はじ)たる 覚書

 行年や 聖書に恥じたる 額踏み

と解釈しました。


「1973年のピンボール」文庫P134〜と一致します。


以下、疲れたジェイの風貌です。

 黒い髭が頬と顎を影のように被い、目はくぼみ、細い唇は乾いてひびわれている。


キリストっぽいでしょ。

ジェイ=Jesus



ここで、待てよ……なのです。

 親にらむ ひらめをふまん 塩干かな


ふまん=踏まん。踏むとくれば、もしかして「踏み絵」?

ひらめ=平目=目が平らになって四=師(キリスト)

親が「水責め」にあって、自分は棄教。水が引いた。


芭蕉は「奥の細道」でトリプルミーニングをやっていますからね。

裏の裏に込めたのか……。



そういえば、中尊寺ってキリスト教っぽいなあと思ったことがあります。

「中」が十字架みたいだし。と、ミーハーな理由からですが。

ミイラもキリスト教にあるし。

キリスト教といっても、大昔、景教と呼ばれた頃に日本に伝わっていたのではないかと。

そうなると、中尊寺・義経・義仲→芭蕉とつながる。


古代史研究家の皆さん、どうなんでしょう。


追記 

義仲寺は大津にあるのですね。
明智光秀かあ。娘がガラシャなので本人もキリシタンではないかと言われています。
そういえば、芭蕉の句に「明智の妻」が出てきたような……。

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by ukiyo-wasure | 2017-12-27 13:03 | 古川柳・俳句 | Comments(0)